絶滅稀少人間図鑑
<渡辺美智雄/安倍晋太郎>
「諸君!」連載第3回

  時として歴史の歯車は急旋回を遂げるこ とがある。朝鮮半島・南北首脳会談がよい例であろう。 朝鮮戦争勃発以来半世紀にして韓国の金大中大統領と北朝鮮の金正日国防委員長が初めて「平和的」会談を持った。 テポドン発射や昨年の黄海沖海戦、相次いだ北の潜水艦や潜水艇、高速船などの侵入事件の記憶がまだまだ生々しいだけに世 界中が驚いた。
 わが国と北朝鮮とはまだ「国交正常」の状態ではない。周知の事実だ。昨今のニュースでは、日朝国交正常化交渉再開のため北朝鮮代表団が来日したことが話題になった。また森喜郎首相と金正日総書記との首脳会談の可能性が検討されていると云うことすら洩れ聞いた。 そして私は5年ほど前、経験したある事実を鮮烈に思い起こしたのである。  それは1995年3月30日の午後、ピョンヤン市内の迎賓館「百花園」でのことだ。 自民、社会、さきがけの連立3与党訪朝団・渡辺美智雄団長の部屋は緊迫した空気に包まれていた。 3与党と労働党による「日朝会談再開のための合意書」の作成でまたもや北朝鮮側から強硬な要求がだされ、行きずまったのである。労働党・金容淳代表はあくまで「 戦後45年間の償い」などを含んだ1990年の金丸信・田辺誠(自民党、社会党)訪朝団による「3党共同宣言」にこだわっていた。渡辺美智雄は訪朝前から“金丸・田辺のリップサービス”を「白紙としなければ交渉の進展は開けない」と言い切っていたのである。社会党は「3党宣言に沿うべき」としていた。 1992年から中断されていた交渉再開のための会議はすでに3日目の山場を迎えていた。  テーブルをドンと叩いて渡辺美智雄が吼えた。「譲歩してまで、なにが何でも“紙切れ”(合意書)が欲しいわけではないっ。(合意できなくても)俺が腹を切ればすむ ことだ。すぐに帰国の飛行機を待機するようにしてくれ!」
 周囲にいた社会党、さきがけのメンバーたちの顔が凍りついた。為す術もない。 それまで、渡辺美智雄は持病と疲労にやつれた表情をしていたが、この時ばかり凄まじいばかりの迫力であった。 「さすが外交経験の豊富な駆け引き上手」と私は舌をまいた。  事務官たちがすぐさま反応して四方にとんだ。会議室ではまだ昨夜来の実務者間交渉が続いている。頻繁にメモが往復する。  居たたまれず廊下で待機していると事務官が走ってきた。やっと北朝鮮側が同意したようだ。4時間ずれこんで調印が行われ る。3日間の“死闘”ともいえるような渡辺美智雄、不退転の交渉だった。 帰途の機内で、渡辺美智雄自民党団長は2時間余り、必死の形相で録音機に向かって喋り続けでいた。交渉の顛末を記録しているのだろう。私は涙がこぼれそうになった。 同じ機内で同じころ、久保旦社会党 団長は同行記者のひとりと長いおしゃべり。 鳩山由紀夫さきがけ団長は依頼された原稿執筆に余念がなかった。  
 1990年1月。ソ連は断末魔の様相を呈していた。行き詰まった共産主義からゴルバチョフのペレストロイカ(改革)路線を支援表明するため元外務大臣・安倍晋太郎デリゲーションが訪ソした。当時のソ連最高会議議長のゴルバチョフは、大統領制への移行という危険な橋を渡る真っ最中であった。また安倍晋太郎は、戦後の日本、そしてアジアの方向を決定ずけた「日米安保体制」を確立させた岸信介元首相の娘婿であった。その彼が日米同盟にとって最大の敵であったソ連の心臓部・クレムリンに乗り込むのだ。口にはださないが胸に秘めたるものがあったはずだ。クレムリンで連日の会議や日程をこなし、ゴルバチョフから「北方領土の主張は日本の権利」との発言を引き出した。余談だが、これがきっかけとなって後年、橋本・エリツイン合意で 「北方領土ノービザ相互訪問」などが実現した。


 自民党訪ソ団団長・安倍晋太郎は入退院をくり返す間隙を縫っての訪ソだっただけに、頬の削げた彼の素顏は痛々しいほどに見えた。会談の成功を日本に伝えるため、 テレビ出演の生放送が始まる直前、彼は土気色の顔をとても気にした。私は走り回ってロシア人のテレビ局員にドーランを借り受け、そっと手渡した。 私が同行取材できた「ふたつの交渉」で垣間見た「ふたりの政治家」。渡辺美智雄 と安倍晋太郎は、共に病に冒されながら、 命を削って国家対国家の熾烈な交渉に臨んだ。悲壮感漂う、凄まじい迫力で燃焼しつくしたように思える。 ふたりとも総理総裁の坐を目前にしながらそれぞれの死をむかえた。渡辺美智雄元副総理。日朝交渉から五ヶ月余後。享年七 十二。安倍晋太郎元幹事長。日ソ交渉から 一年四ヶ月後 享年67。(文中敬称略)

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