高野山「投華の軌跡」
<"求道者"の素顔>

 痛いほど肌を刺す寒風が吹きすさぶ日であ った。海抜1000メートルの高野山・金剛三昧院多宝塔の板敷きの床は冷えきっていた。  日本画家・高山辰雄画伯はやおら靴下を脱ぎすて素足のまま歩き回った。
 うす暗い堂内に安置された五智如来像をじっと凝視する。素足から霊気を感じとり、その感触を心に刻み込んでいるように思える。 私の切るシャッター音だけがやけに響く。 <何か>と対話しているように真剣な画伯表情を見ているとカメラを持つ手が萎えそうになる。 勇を鼓して構え直す。まったくこの画伯の気迫には圧倒されるものがある。
 この仕事はまるで「被写体とカメラマンとの真剣格闘勝負だな」と思った。

 高山画伯が高野山・金剛峰寺に納める屏風絵を描くことになったと映画監督の村野鐵太郎さんから聞いた。その製作過程をハイビジョンVTRで記録する際、スチール写 真でなければ表現できないシーンがあって、それを撮ってみないかと誘われたのだ。
 画伯の描こうとしている屏風絵は、無名の留学僧である空海が唐の長安で密教の奥義を授かる歴史的な瞬間がテーマだった。
 撮影は厳寒の高野山から始まった。監督が私に要求したのは画伯のさまざまな表情と霊宝館にある仏像群の手や指先の形、僧衣や裳裾の襞、祈りの最中、印を結ぶ修業僧たち…の動きを一枚の写 真に定着させることであった。
 千年を経た老杉の大木に覆われた石畳の参道をはさんで無数の苔むした墓碑群。大きな画帳を小わきに抱えて画伯が歩いて来る。 時々立ち止まり、しゃがみ込み、凝視する。 

 「空気も土も眺めて飽きることはない。 自然は<何か>を持っている。何かがつかめたらと画面 の上に鉛筆で確かめる。極大の宇宙から極微の原子、生命の遺伝と神秘な領域の事柄まで、教えられるけど、迫ればまた遠くに行くようで、自然の持つ力、美しさの答えにはなってくれない。
 私は<何か>に生かされていると思う時がある。それが何なのかわからない。
 私を知る人も、知らない人も、自然も、そして人間が作り続けたビルや高速道路が、私を生かし作ったと思う。私の身体のまわりにある風が、そのまま心の中にある‥。」

 撮影がひと段落してようやく喫茶店で暖をとりコーヒーを啜って落ち着いた時、私は自分の写 真集を差し出した。画家を撮ったものや、美術関係の本ではない。湾岸戦争やドイツ統一、38度線やエトロフ島など世界の激動地を取材したものだ。 


 「君の写真はがさつだけれども、自然でいいね。<何か>を感じるよ」 私は画伯の写 真を見る眼をつくづく怖いと思った。  歴史が動く際の巨大な渦に巻き込まれ、両手をあげて、あっぷあっぷしながらも、できるだけ自然体で撮りたいと願う私の気分を正確に見抜かれていたからだ。
 春がきて桜の花が満開になった。大分は画伯が生まれ育ったふるさとである。幼い頃から臼杵の石仏や磨崖仏、国東半島などに愛着 が深い。両切りピースの煙を燻らせながらおだやかに語る。
 「時の流れという旅をしながらふと立ち止まり、思うことはこのふるさとであったかもしれない…、。そして、海も山も私の描くすべての源はもしかしたらここにあるのかもしれない。」ファインダーを通 して見た高野山での高山画伯は画家というよりも、むしろ哲学者の風貌を感じさせた。いや、求道者と表現したほうがいいのかもしれない。 だが、ふるさとの海や山に接した画伯は八十歳を超えたひととは思えないほど陽気でやんちゃであった。 幼い頃遊んだという大木の周りをはしゃいで歩き回った。姫島に渡るフェリーボートでは周囲の心配をよそにして、強風にも関わらず、舳先に身をのり出し飛び去る波を飽きずに眺めた。 無遠慮に、しつっこく追っかける私のカメラにも少し照れたり、はにかみもした。
 “なんという人なんだろう。”と正直驚いた。ますます、この桁外れの人物に興味が湧いてきた。 ハイビジョンVTRの撮影はこうして終了したが、その後も機会あるごとに私個人の取材として、現在も続いている。
 今世紀最大の障屏画と称される「投華−密教に入る」は製作決定から十六年の歳月を経て、昨年の九月、三部作の第一部として六曲一双が完成した。高野山・金剛峰寺での入魂式の当日、並び、立てられた屏風画を前にして淡々と挨拶をされる画伯を眺めながら、初めてシャッターを切った時以来あしかけ六年間を思い起こしていた。