絶滅稀少人間図鑑
<小野田/横井/中村>
「諸君」連載第2回

 今年もまた暑い最中の終戦記念日がやってくる。戦争は半世紀も前の遠い記憶の中でしか語られない。若い世代の多くは敗戦の事実すら知らないものもいる。  だが、これから登場する3人の元日本兵 たちにとって毎年の”8月15日”は格別 の思いがあったはずだ。
 小野田寛雄元少尉、横井庄一元伍長そして台湾の高砂族出身で日本軍特別挺身隊員として出征した中村輝夫(本名李光輝)のことだ。
 小野田寛雄はフイリピン・ルバング島に残置諜報員として戦後29年間の潜伏、横井庄一は、若者たちのリゾート・グアム島の深い山中から27年目に救出された。「恥ずかしながら生きて帰ってきました」の帰国第一声は当時の流行語にもなった。最も長く潜伏したのは中村輝夫だ。インドネシア・モロタイ島で33年ぶりに発見・救出された。
 1974年2月27日各紙朝刊1面トップに小野田元少尉確認!の報が一斉に流れた。
  鈴木紀夫という若い冒険家が小野田に接触したのだ。彼は後年ヒマラヤで雪男の探索中消息を絶つ。当時駆け出しの雑誌写 真記者だった私は即日フイリピンに飛ばされた。小野田は陸軍中野学校出身で諜報専門の訓練を受けていた。残置諜報といって終戦後も敵地に潜伏し情報を得る使命を持っていた。そのため直属上官の命令伝達がなければ任務を解除できないと29年間もジャングルで生きてきた。
 私達報道陣の前に姿を現した彼は、不器用なつぎはぎだらけだが洗いざらした軍服に丸坊主、腰には白布で束を巻いた軍刀を吊っていた。眼光鋭く胸をそらして挙手の礼をとる。翌日ルバング島からマニラに移送。マラカニアン宮殿でマルコス大統領に指揮刀を渡した。
 日本国中がこの「英雄帰還」で大騒ぎになった。例によってマスコミは小野田番を張りつけ、健康診断のため入院した病院や和歌山の実家前には社旗を付けた車の列が並び逐一彼の言動が活字になった。記者会見には百人もの報道陣が集まるが彼は目敏く私を見つけて眼でわらう。
 なにしろ我々はルバング以来の顔なじみで”戦友”になっていた。 29年間の「孤独な戦争」の手記の争奪戦が始まった。当時私は編集長から「300万円まで出そう。なんとか手記を取れ」 と厳命されていた。さいわい内諾を得ていたがそこにとんでもないことが起こった。なんとライバル誌の編集長はドアーの隙間から「手記一金500万円也」と書いた名刺を差し入れたのだ。「帰国後の小野田の生活にはお金が必要だ。分かってやってほしい」と彼の兄から丁寧に断りが届いた。それからライバル誌の小野田手記連載が始まった。それに反論する形で我が方も記事を作った。駆け出し記者が経験した週刊誌同士の修羅場であった。
 33年振りに故郷台湾・都櫪に帰ってみると李光輝(日本名・中村輝夫)の妻はすでに再婚していた。村の英雄は小野田寛雄の 「帰郷狂騒曲」程ではないが大歓迎をうけて、記念の棒球(野球)大会が行われた。


 そこでなんと第一打席でホームランをかっ飛ばしたのだ。まるで33年間の憂さを 吹っ飛ばすように。モロタイ島の密林のなかで思っていたのは結婚したばかりの妻と選手として活躍した野球のことばかりと言う。日本人として出征し台湾人として帰国した彼に対して日本政府や日本人はそれほど関心を寄せる事はなかった。それでも「日本の皆さんにご心配をかけて…。ありがとう。機会があれば日本に行ってみたい。」と私に告げた。私は忸怩たる思いと共に「ぜひ来て下さいね。」と伝えたが その後彼が、日本を訪れることはなかった。数年後、紆余曲折はあったが再婚していた妻と復縁し農業に従事したが61歳の若さで世を去った。
 洋服の仕立て業だった横井庄一は終戦を知らずジャングルで27年間耐乏生活を続けてきた。帰国してからは折からの石油ショック時代をうけて耐乏生活評論家としてテレビや講演などマスコミに登場。
 二年後の夏にはある洋上大学の講師としてグアム島に滞在した。その時の横井庄一は一見取っつきにくい頑固なおじさんといった感じで学生達とはあまり馴染まなかった。私は無理に錆び崩れた砲の前で撮影したが今思うと心ないことであったと反省している。屈託もなく観光を楽しんでいる若者たちと自分自身の青春を比べてみてあまりの落差にただ唖然としていたのだろう。世間は彼の節約論や少しずれた時代認識の言動に露骨な好奇心の目を注いだ。
 「平和呆けと濫費」の故国は彼にとって 居たたまれない思いであったのだろう。 82歳の生涯を全うする直前、ある雑誌のインタビューで「帰ってくるんじゃなかった。贅沢に慣れすぎた日本人、どこか間違っとりゃせんか」と嘆いた。 人生の大半をジャングルの中で孤独の戦いをせざるを得なかった三人の日本兵たち。それぞれが新しい価値観を持つ都会の密林のなかで三者三様の晩年を、晩婚の伴侶と共に幸せを噛み締めてくれたとすれば 戦争を知らない私達の世代とすればなにか ほっとする。

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