絶滅稀少人間図鑑
<大藪春彦(上) >
「諸君」連載第4回

 テンガロン・ハットにレイバンのサングラス。銀ボタンのついたデニムのカウボーイ・シャツ。腰のベルトにはシルバー製のバックルが光る。足元には刺繍を施したウエスタンカットのブーツで決めている。それがまた彼の巨体によく似合っていた。大藪春彦の面 目躍如たる姿だ。
 初めて彼と会った時、正直言って驚いた。丸い大きな顔全体で笑いかけ、立て続けにタバコを吸いながら訥々と喋る。彼が見せた素顔の表情は、とても凄惨な戦いに挑むストイックな男のハードボイルド小説を書き続けている人とは思えないほどの穏やかさであった。さらに偶然だが大藪春彦と私は同じ香川県出身だったことも分かった。彼よりも私は八歳ほど若かったが、お国言葉もお互い気にならず、たちまち親近感が持てるようになった。
 この時は週刊誌のカメラマンとしてインタビュー写真の撮影をしただけだったが、数年後に厳しい冒険を一緒に体験することになる。だが、それはもっと後の話だ。

 彼は「野獣死すべし」をひっさげて華々しく登場した。1958年のことである。大藪春彦が早稲田大学三年生の時の夏休み、郷里の高松で一気に書き上げた作品だ。
 不遇な苦学生が日頃の鬱積やフラストレーションを大学ノートに叩き付けるようにして書いたものだ。まず最初に早稲田の同人誌「青炎」に発表した。これが評判になり江戸川乱歩に見いだされた、すぐさま、「宝石」に転載され一躍脚光をあびた。
 江戸川乱歩はその作品紹介の中で「異常の人生観を持つ一青年の大量殺人物語で、拳銃による十人切り、二十人切り、三十人切り、ハードボイルドの机竜之介である」と評した。
 「野獣死すべし」の主人公である伊達邦彦はその小説のなかでなんと1,642名を殺している。これは個人的な殺しの範疇ではない。まるで戦争のようだ。
 ストーリーの中で伊達邦彦は敗戦の時、満州と朝鮮との国境近くの知に置き去りにされ、あらゆる辛酸をなめる体験を持つ。
 満州や朝鮮半島にソ連軍が雪崩のように進駐してくると、軍人や高級官僚などのえらいやつ、力のあるやつ、威張ったやつほどいち早く風を巻いて逃げた。後に残された幼児、病人、老人、女子供と弱いものから順番に飢えて、陵辱されて死んでいった。
 これは作者である大藪春彦の実体験とそっくり同じだ。


 戒厳令のしかれた町ではひと晩中、銃声が谺し、朝になると死体が転がっていた。我が物顔に略奪などを繰り返すソ連軍囚人兵や支配される側から支配する側になった朝鮮の民衆たちの敵意に晒されながら、十歳の春彦少年は、出征中の父親になり代わり、母と幼い妹二人を抱えて一家の大黒柱とならざるを得なかった。
 日々、青空市場を走り回って食料をかっぱらってこなければ一家飢え死にだ。時には追っかけられ、殴られ、けっ飛ばされ、ソ連軍の食料を積んだ貨車に忍び込んでいたときには銃剣でぐさりと背中をやられたこともあった。
 「この世の中は力のあるものの勝ちだ。」ソ連軍兵の持つトカレフ拳銃やバラライカ短機関銃がその象徴のように思えた。翌年、日本政府の無策に絶望し、意を決して母親の持つ宝石などを売りながら三十八度線を突破し、共同で闇船を雇いながら半死半生の思いで佐世保港に辿り着いた。この一年間に及ぶ戦争、収容所での抑留生活、脱出、帰還、戦後の闇市犯罪、そして飢餓や死への恐怖などの過酷な体験こそが国家や権力に対する不信感や、それへの反発を彼の心に植え付けたのである。<以下略>