絶滅稀少人間図鑑
<竹下 登>
「諸君!」連載第11回

 経済沈滞。失言多発。支持率低迷。先行き不透明な社会状況の中で、前代未聞の失脚劇を演じた森喜朗首相にかわる自民党の総裁選挙。最近までの総裁選挙では、立候補者が出揃った時点で「次は誰」との大勢が決まり、後はセレモニーをこなすだけのようなケースが多かった。ところが今回はちょっと様子が違った。自民党の存続そのものが問われ、内部崩壊というか「液状化」状態を呈し、そのため「自民党を変えなくてはならない」との台詞が奇しくも候補者たちの合い言葉となった。だが現実はもっと厳しい。「変革ではなく崩壊。これは自民党がやる最後の総裁選」と言ってはばからぬ 自民党内の若手議員まで出てくるていたらくだ。
 竹下登から始まった自民党最大派閥、経世会の長期支配に陰りが見え、どうやら一枚岩、鉄の結束が崩れてきたということなのだろう。権力の失速は大なり小なり似通 っている。二十年遅れて”ソ連崩壊”が わが日本にもやってきたというのは言い過ぎか。当時のソ連には、ゴルバチョフのような良くも悪くも強力なリーダーがいた。  ロシアになってからもエリツイン、プ−チンと強力パワーは引き継がれた。ロシアが変革して正解かどうかはまだ分からないが、ともかくも大転換の基本に向かって汗を流しているのは事実。  いま、日本にも変革が必要との流れが渦巻いている。だけど牽引車となるべき強力なリーダーは果 たして出現するのか。  「重い重い荷物をこの小さな肩に背負ってその重さが肩に食い込み痛みを感じる」  経世会の創業者・竹下登が第十二代の自民党総裁に指名されたのは一九八七年十月「最初の顏」を自分の手で撮りたいと念願していた。  鯛の盛り盆はそのため前夜急きょ用意していた”仕掛け”であった。ちょっぴり抜け駆けかもしれないが、この際、致しかたない。私は秘書を通 じて、「お祝いの品を手渡したい」と申し入れた。顔なじみの秘書は私を玄関口まで案内してくれた。待つことしばし、竹下登が、ポロシャツに上着を羽織っただけの軽装で出てきた。すかさず鯛を手渡し、撮影をお願いした。その時、ファインダーを通 して竹下の顏はひきつって見えた。「今の心境は緊張感そのものです」と述べた総裁決定直後の言葉どおり、リーダーとしての重責を噛み締めている為なのか。それとも寝不足なのか。いずれにせよ、総裁選挙を境にして竹下の表情は一変していた。余談だが「顔は履歴書」と例えられるように、人間、責任感とか決意の重さによって表情は引き締まる。その最たるものは歴代の総理総裁の顔の変化であろう。田中角栄の表情も首相就任後、劇的に変わった。大平正芳もしかり、中曽根康宏も同様だ。 変わらなかったのは失礼ながら森喜朗くらいのものではなかろうか。  さて竹下登新総裁のことだ。この総裁選挙では自民党幹事長であった竹下と総務会長・安倍晋太郎、大蔵大臣・宮沢喜一が覇を競った。 中曽根後継を目指すリーダー選びは頭初、本選挙を回避し「三人の話合いで決める」とかっこいい言葉でスタートした。だが「安竹宮」会談は決裂。仲良し「安竹連合」は延々十六時間もの迷走を繰り返し、決着つかず。とうとう土壇場「中曽根裁定」にもつれ込む。


 候補者たちも記者たちも長丁場で疲労困憊していた二十日未明午前零時十分ごろ。自民党本部の会見場へ「安倍!安倍に決まりッ!」と一人の記者が走り込み会見場は騒然となった。各社記者たちは右往左往し、電話に飛びつく。だが、これがまったくの誤報であった。後に”三本指首相”と揶揄された宇野宗徳幹事長代理があたふたと姿を現し、中曽根自筆の後継者指名文書が読み上げられた。「諸般 のことを熟考したうえ…竹下登君を後継総裁にあてることとしました。」  私はそっと最前列のカメラマン席を離れて、宇野の背後に周りこみ、ギョッとして振り向いた肩ごしに望遠レンズで裁定文のアップを撮影した。  ともあれ、この時から経世会は自民党最大派閥として数を増やし、現在の橋本派に至るまで継承され、常にキングメーカーとしての勢力を持ち続けた。 「安竹宮」大決戦から十四年、竹下、安倍は既に冥界の住人となった。それにしても驚くのは、いまだに財務大臣として内閣の要職を担っている宮沢喜一のブスッとした顏の変わっていないことである。願わくば、一国の宰相たるもの、ファインダーを覗くカメラマンたちの背筋を凍らせるほどの迫力を持って欲しいものだ。             (文中敬称略)