絶滅稀少人間図鑑
<田中真紀子>
「諸君!」連載第12回
小泉内閣の超目玉であるはずの田中眞紀 子・外務大臣の周辺があわただしい。外務省の人事凍結から端を発した”内政問題”で同僚議員からも国民からも賛否両極端な評価が飛び交う。従来見向きもされなかった国会TV中継の視聴率が居並ぶワイドショー番組を蹴ちらかして八十パーセントにもなったことは前代未聞だ。これも「マキコ旋風」のなせる技であることは確か。
だが田中眞紀子は日本国家の「外務大臣」 である。私人として舞台の大向こうから、
歯に衣着せぬヤジを飛ばすのとはわけが違 う。それでなくても、最近の最高府ではなんだか重箱の隅を箸でほじくるような揚げ足取りがはびこっているのだから”うっかり発言”は好餌にされる。国会の質疑応答のなかで「虚言癖」と評されたようだが、海の向こうのアメリカでは「政治家だから”ウソ”もつく」が当然とされている。国益をかけた国家間のかけひきなのだから一世一代の”嘘”なのだろう。珍奇な場当たり的な嘘ではない。
大臣に嘘をつけとは言えないが井戸端会議の場ではなく国際舞台でフェイントもまじえ、堂々とまくし立ててほしいものだ。
大臣の父・田中角栄元首相はそのへんの 呼吸が実に見事であった。「敵を作るな」が彼の信条で、特に官僚に対して硬軟を使い分け、まるで自分の手足のように動かした。 田中角栄が郵政大臣として初登庁したときの挨拶で「諸君たちはみな優秀だ。やりたいようにやればいい。大臣室のドアーは常にオープンだ。万一の場合は私が全責任をとるッ」これで郵政省全体がワアーッと沸いた。
角栄流人心掌握術にはもう一つのテクニックがある。何事にも全力疾走をしない者には、まず最初にドカーンと大雷を落とす。先手必勝なのだろう。たとえ始まりは険悪ても「結果
良ければ全て良し」。汗を流した後のフォローは気配り万全でその内懐はとても深かった。
小泉首相と眞紀子大臣、この二枚看板が 登場する連日の国会中継を眺めながら、ふ
と思い起こすことがある。角さんと私との 関わり合いのことである。
ちょっと「疲れたかなあ」としみじみ考 えたのは私が三十九歳の時だった。忙しさに追いまくられる雑誌写
真記者を十五年近くも勤め、生活のほとんど全てが週刊誌のサイクルで転がっていたからだった。二〜三日で取材を終え、良くも悪くも掲載せざるを得ない状況の繰り返しは常にある種のフラストレーションが沈澱しているように思えた。時間をかけてなにか、じっくり撮り込む仕事をやりたいと思い切ってフリーランスとなり、まず撮り始めたのが田中角栄であった。
一九八二年のことだ。
きっかけは月刊誌のインタビュー企画。取材交渉だけでも半年の時間が必要であった。当時、角栄は自民党最大派閥のリーダーであり、「目白の闇将軍」「キングメーカー」と揶揄されるほどの権力を持っていた。が、一方で、ロッキード裁判を抱え、その動向は全国民の関心事であった。なんとかして角さんを取材しようとマスコミは懸命になった。 だが写
真嫌いで有名な元首相を単独取材することは至難の技で、目白の私邸前には三メートルもの脚立が林立し、大勢のカメラマン達がシャッターチャンスを狙って四六時中張り込むありさま。 それでもやっと撮れるチャンスがやって きた。インタビューを受け入れてくれたのである。前日、密かに目白邸に持ち込んだ撮影機材をセットして、いざ撮ろうとすると「そのピカッと光る奴(ストロボのこと)をやめんか。これでは話ができん。写
真はまた別の機会に撮ろう。」と一喝された。インタビューは延々六時間半にも及んだが、その間、一枚の写
真すらも撮れず、これほど悔しい思いを味わったことはかってなかった。こんなに長時間撮影もしないで、一メートルと離れていない至近距離から一人の人物の顔を見続けるという体験はもちろん初めてのこと。
機関銃のように言葉がほと走り、袖をくり上げる。話はとてつもなく面白い。
迫力もある。この表情の観察で「田中角栄」という被写体に魅せられたのかもしれない。