絶滅稀少人間図鑑
<輪島大志>
「諸君!」連載第14回
さすがの猛暑もここ、お茶の水の静かなホテルには入ってこない。冷房のよく利いたロビーでわたしは少しだけ高揚した気分で輪島大士を待っていた。なにしろ十四,五年ぶりの再会なのだ。日焼けした顔は汗にまみれているが精悍さは変わっていない。とても五三歳には見えなかった。
輪島大士は元大相撲の横綱である。「黄金の左腕」での豪快な下手投げや寄り切りは史上最強といわれた。ライバルの北の湖と競い合って「輪湖」と称され相撲の黄金時代を築いた。遊びっぷりもけた外れ。一晩に二〇〇万円も使って飲み歩いたり、七〇〇万円のリンカーンで場所入りをした。
今でこそ外車など珍しくもないが当時は超贅沢品だ。それこそスターとしてまぶしく輝くように見えたものだ。「たにまち」のおごりが当然の世界で、輪島の自腹を切っての面
倒見の良さは、素直で陽気な性格と相まって人々から愛され、プロ野球の長島茂雄と人気を二分するほどの国民的ヒーローになっていた。
だが「好事魔多し」。史上初の本名・学士(日大卒)の横綱は頸椎捻挫の後遺症で引退を余儀なくされる。花籠親方を襲名するが、連帯保証をした実妹の経営するちゃんこ料理店が倒産し、多額の借金を抱えてしまう。せっぱ詰まって年寄り名跡を担保に充てて、相撲協会から降格処分と無期限謹慎処分を受ける。
大スターが地獄に落ちた。「水に落ちた犬」が叩かれるのは世の常だ。マスコミはことあるごとに、あることないこと面
白おかしく書きまくった。 追われるよう角界を退いた失意の大横綱に救世主があらわれた。全日本プロレスのジャイアント・馬場である。契約金はゼロ。ギャラにしても馬場クラスでさえも一試合二〇万円、前座だと五万円以下。とても借金返済までは追いつかない。だが、とにかく汗を流すことで債権者やファンに応えるより他に申し開きができない。角界でははるかに格下であった天竜源一郎や石川敬士が今度は先輩になる。プライドも捨てなければならない。輪島三八歳。円い土俵から四角いリングへ、どん底からの再出発であった。
私がハワイで輪島を直撃したのは一九八七年の四月のこと。 プロレス入り記者発表後、秘密裏に日本を離れ、マスコミや世間と交渉を絶ち、プロレスラーとしての肉体改造に猛特訓をしている時期であった。
輪島はいた。ワイキキ近くの海岸の砂を蹴って黙々と走っている。 「まだプロレスラーの身体に仕上がっていない。裸を撮らせることは馬場さんから厳禁されている。私は命令に従う。」
かっては裸で勝負して、いままた裸一貫で再起を図る輪島は頑なに拒み通した。
日本海で育った輪島は水上スキーまでこなすスポーツ万能選手である。ゴルフも飛ばしやで知られた。その輪島が海にもはいらず、ゴルフもやらず、「遊びごと禁止令」を気の毒なほど忠実に守っているのだ。
ジャイアント・馬場のマンションを借り受けての一人い住い。「ぼくは意外ときれい好きでね。掃除や洗濯もちゃんとやってますよ。」「電気釜で自炊もしてるしね。」ジムまでは一ヶ月一五ドルの定期券を買ってバスで通
っている。かっての輪島からはとても想像できない暮らしぶりだ。 それだけにプロレスに賭ける輪島の心情がひしひしと伝わってきた。
「輪島アメリカでデビュー戦」の活字がスポーツ紙に踊ったのはそれから四ヶ月後。
私はカンザス・シテイーで再度、輪島に会った。ふた周りほども大きくなっている。九五キロから一二〇キロにウェイトが増えたという。ハワイでの身体作りは順調だったようだ。師匠のジャイアント・馬場や三沢光晴(当時は二代目タイガーマスク)が付きっきりで実戦技を仕込んだ。往年の名レスラーだったパット・オコーナーと共にイリノイ州でサマーキャンプを行っていたプロフットボールチーム「セントルイス・カージナルス」に合流、メガトンタックルの特訓を受け、アメフトに興味を抱く。
この体験が後に輪島に重大な影響を及ぼすことになるのだがそれは後の話。 プロレスデビュー第一戦はジャイアント・馬場とタッグを組んで若手極悪コンビのフェリスとホッグに対戦。勝負はあっけなく輪島の片エビ固めで決まり「輪島の完璧デビュー」が果
たされた。