絶滅稀少人間図鑑
<井上 靖>
「諸君!」連載第15回

 海外へ出るときにはきまって時代小説を持参するのが私の 「癖」の一つである。
 まだ学生だった時、アメリカで腰骨を怪我し、孤独と不安のまっただ中でたまたま読んだ井上靖の「戦国無頼」。その感動と興奮が「癖」の始まりだった。 湾岸戦争の際もミナレットの尖塔からおどろおどろしく響くコーランの読経を耳にしながら、「風と雲と砦」に読みふけったことを思いだす。 日中、催涙弾が飛び交うなか、アドレナリンを滾らせてカメラ片手に飛び回る恐怖からの逃避なのか。戦国の荒野を疾駆した“もののふ”の心意気にあやかりたいためなのか。異なる文化価値観のなかでより強く日本人であることを無意識のうちに感じているのだろうか。 いずれにせよ、私にとって、異国で読む「時代小説」は心を落ち着かせ、気を充実させるための特効薬のひとつであることは間違いない。
 その「特効薬」の原点ともいえる井上靖の時代小説「おろしや国酔夢譚」を元に、二〇〇年前の日本人漂流民を追う旅をすることになった。 伊勢白子の船頭・大黒屋光太夫ら十七名の漂流民がアムチトカ島に流れ着き、カムチャッカ半島から極寒のシベリアを橇で横断。ペテルブルグでエカテリーナ女帝に嘆願し、十年間の艱難辛苦のさすらいの旅の果 てにようやく日本に帰国できたのは光太夫を始め、わずかに三人だけ。 井上靖の小説では彼らの過酷で壮大な“運命の旅”が余すところなく語られている。この驚嘆すべき「冒険者たち」を追体験するテレビ・ドキュメンタリーを撮影することがわれわれの目的であった。アリューシャン列島を皮切りに冬と夏と二回、三ヶ月に渡ってシベリアを横断する旅はこうして始まった。 シベリアのオイミャコンはかってマイナス七十二度を記録した北極よりも南極よりもさらに極寒の地である。そこからわずかに離れたウスチネラが最初の訪問地であった。町全体がすっぽりと白い霧で覆われ、風も空気も凍っている。家々のドアーは三重になっていて、室内は十六度。最初のドアーを開けると一挙にマイナス十度位 まで下がる。二番目のドアーではマイナス三十度。最後のドアーを引いて、思い切り外へ飛び出すと気温はなんとマイナス六十度。みるまに吐く息が凍り、鼻毛もチリチリ、瞼には凍ったまつげがスダレ状に垂れ下がる。うっかり指で擦りでもしようものならパラパラ折れて目に突き刺さりそうだ。撮影は十分間しかできない。フィルムが凍ってしまうからだ。白金懐炉を三個仕込んだクーラーボックスから二台目のカメラを取り出し、また十分間の撮影を続ける。そのうち小一時間ほどで手足の先がジンジンしびれ始め、顔に白い斑点ができる。凍傷の前触れだ。こうなると全てを中止して暖をとらなければならない。用意していたガソリンを凍った丸太にぶっかけて焚火をおこす。 焚火にあたるのもまた一苦労だ。近づくと熱いし、離れると凍える。その間五センチくらいが勝負なのだ。ほどよく気持ちのよいあたり方はない。前後左右、小刻みに身体を揺らし続けて、やっと暖かみを感じるようになる。 光太夫たちが体験したであろう、この氷点下六十度の世界を馬で旅することを実感するためヤクート馬の牧場に行くことにした。雪原に馬の群がいる。身体から発散する体温が瞬時に凍って群の周りは濛々と白い霧で包れていた。牧童たちは熊や狐、狼やうさぎの毛皮で作った衣服を身に付けている。靴は羊のフェルト製だ。光太夫たちも同じものを着用したに違いない。そうでなければこんな極寒の世界で生き残れるはずがない。私は旅を続けながら、思いを二〇〇年前の光太夫に馳せ、彼の強靱な精神と不屈の強さに何度も舌をまいた。  短いシベリアの夏が来てヤクーツクで井上靖夫妻と合流することになった。この年井上靖は七十八歳になっていたが、童のような好奇心を顔いっぱいに現していた。 凍土が溶けて地盤が緩み、家中が前後 左右上下にひしゃげた町並みを歩き回った。      レナ河のほとりにあるソーチエンツイ村の夏祭りでは広大な草原の上で即席の宴会場が設けられ、クミス(馬の乳から作った酒)を酌み交わす。騎馬民族のごちそうは骨付き馬肉の巨大な串焼き、馬の血の腸詰め、トナカイの舌。鮒の二度煮スープなどであった。
 突き抜けるような青空とみどりの草原は 五ヶ月前の極寒の白一色の世界とはあまりにも違っていた。 おろしあ国酔夢譚を書いた時、井上靖はシベリアを実見していなかった。光太夫の口述を聞き取った桂川甫周の「北槎 文略」や膨大な資料などから想像して書いたものだったそうだ。だが彼の描いた極北の地の自然や人間の生活ぶりはほとんど間違っていなかった。井上靖はしみじみとした口調で安堵したと語った。 短い夏の盛りが過ぎたころ井上夫妻とイルクーツクに移動した。アンガラ河畔の公園の樹は白い花を咲かせていた。川辺に向かって歩くと吹雪のようにハコヤナギの綿毛がハラハラと舞った。 その日の夜おそくアンガラ河の対岸に時ならぬ雷鳴が轟き、いくつもの稲妻が交錯し続けた。突き上げるような鋭く重い音だ。跳ね起きて窓側にカメラをセットし、長時間露光で閃光の乱舞を記録した。 翌日、井上靖の部屋にみんなで集まった時、一遍の詩が披露された。私はそっとメモを取った。


白夜         井上靖
十時五十分、日没。 三時、日の出 日没から日の出までの白夜の4時間を、この世ならぬ 烈しい雷鳴と雷光が埋めている。
雷鳴がとどろき、赤い稲妻が奔ると、その度にアンガラ河対岸の密林地帯からは、 一本の黒い煙の柱が立ちのぼる。
こうした ことがいつ果てるともなく繰り返され次々 に数を増やしてゆく黒い柱の乱立。
大祭壇の造営でも行われているかのようだ。
私はアンガラ河畔の一室で、寝台の上に端座して、宣誓の言葉を綴る。 与えられた余命を、願わくば烈しく、 願わくば奔放に、併し思い邪しまなく。
対岸の異変に対して、こうする以外、いかなる対かい方もないのだ。
次々に雷光が、白夜の明るい夜空をめくっている。

  光太夫たちとは比較にもならないが、われわれの旅は終わった。テレビのドキュメンタリー「シベリア大紀行」ーおろしあ国酔夢譚の世界を行くーは作家・椎名誠のレポートで一九八五年十二月十二、十三日に放映された。前後編五時間の大作だった。 それから一ヶ月後、悲しいことがおこった。全行程を共にしたTBSプロデユーサーの星見利夫が急逝したのだ。シベリアで歯痛に苦しんでいたのだが、悪性の上顎癌で手遅れになった。北風の冷たい葬儀の日、シベリア横断チーム八名で棺を担ぎ、井上靖がおくった「北斗闌干」の言葉が墓碑銘に刻まれた。   (文中敬称略)